ミき下の【スミつき】

Overturn Of Encephalon

【食べる男】ep.1

 食べる男。
 市民祭り開催中の公園の出入り口近くの、アップテンポなハワイアンミュージックが漏れ聞こえる白いテントの中、和気藹々としたムードの現役女子大生に囲まれつつ、雨上がりの寒さに震えながら安価な仕出し弁当を食らう二十三歳非正規雇用の男。
 コンビニでイートインスペースへと続く列に並びながら出来上がってしまったカップ焼きそばをすすり込む男。
 メロンパン一個とスイスロール一本を平らげた後に、鍋焼きうどんの大盛りに薬味を大量に入れて食べる男。
 台湾まぜそばと豆乳担々麺を延々とかきまぜて、最終的に食べる男。
 玄米茶を一日で三リットル飲む男。
 おれが某コンビニの大盛り明太子スパゲティを食べるときは百パーセント心身が荒んでいる時だ、と唱えながら天然水の沖縄産アロエ味をラッパ飲みする男。
 注文した大盛りもりそばのそばつゆに約五十振りの七味を投入し、およそ五分足らずで食べ終えた後、そのつゆを一気に飲み干し、顔面から汗をダラダラ流しながら胃袋が焼けるような苦しみに悶える男。
 忘年会の前にだいふくのアイスと冷しラーメン(ピリ辛味)一人前を食べる男。
 繁華街高架下の工事現場の前で一リットルの紙パック牛乳をストローでチューチューしている男。
 熱々のチリトマト味のカップ麺に千切りキャベツを勢いよく放り込み、ジャケットから少し覗いた白いワイシャツを汚す男。
 かつてアルバイトしていた遊園地で最もお世話になった方に食事のお誘い長文ラインを送ってしまったなどと心中で呟きながら一リットルのブレンド麦茶を飲み干す男。
 盛りそばの特盛りをたいらげた後にカレーパンと寒天ゼリーを食べる男。
 お湯を注いで五分経ってから半分食べ、もう五分置いてから残りの半分を食べる男。
 おせんべいを配った後におせんべいを食べる男。
 人気ユーチューバーが百点満点中五点をつけた、パクチーのありったけ入ったカップ焼きそばを半ば勢いで平らげた後にゆっくりと一緒に買っておいた辛子明太子おにぎりを食べる男。
 朝に顔を合わせたときではなく、一日が終わってから新年の挨拶回りをした後に残っていたペットボトルの水を一気飲みする男。
 リプトンを飲む男。
 千切りキャベツを一口食べてスパイシーチキンを一口食べて、また千切りキャベツを一口、スパイシーチキンを一口食べて、タンドリーチキン風サラダチキンを食べる男。

 

(続く)

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【早すぎた消耗】

だおぉぉぉぉおおい!


エレベーターでラジオ体操するやつがあるかぁ!

おいっちにっさんしっ じゃねぇよ!

どこの体操好きだよ! お前そこまで体操好きじゃねぇだろ!

長い付き合いだけど、体操好きには見えなかったぞ……

体操が大層好きならまだしも

なんちゃって

おぉぉぉぉい!

おかしいだろぉ! ほんと、エレベーターの中で、なぁ!

体操はおかしいだろぉ! なぁ!

お前なぁ! もう何だよ なぁ!

そうやって そうやってよぉ……

ほんとなぁ!

何か言えよ おまぃ……お前なぁ!

お前が展望台行きたいって言うからなぁ!

これ……このエレベーター乗ってよぉ……

なのにラジオ体操とかなぁ!

何だよもう なぁ!

曲とか無いのに急にやりだすからなぁ……

あれだよお前!

最初何か分からなかったからな

だってお前なぁ……ラジオ体操なのに音楽なかったらラジオ体操じゃねぇよ!

そうだよお前!

ラジオ体操をラジオ無しでやることは良くないこと!

絶対やっちゃいけないこと

そうだよお前

あとな、あと音無いのに踊れないだろぉ?

せめてアレだよ

ラジオカセットとか持ってきて……

アレだろお前!

なぁ!

アレだよほんとにお前よぉ……

なかなか着かないな……もう

何階の高さだっけこれ?

四十だからやっと半分か……

なぁ!

もうなぁ! お前はそうやってエレベーターで体操とかやってよぉ……

ほんとにお前はお前だな

なぁ!?

お前はお前だよほんとによぉ……

アレだよ平日だから空いてて良かったけど

土日だったらたぶんぎゅうぎゅうだからっ……なん……

なぁ!

そうだよお前

他の人いなかったら良かったけど、あっ……

他の人いなかったから良かったけど、他の人いたらめっちゃ邪魔だからなぁ!

たぶん人に当たってるからな?

なぁ! ほんとによぉ……

お前はなぁ……

いっつもそうやってなぁ……

ほんとになぁ……

お前だよなぁ……

外見てんじゃねぇよ! なぁ!

写真撮るなっつの!

上で撮れるだろ! うるせぇよ!

こっちじゃねぇよ!

眩しいわ!

なぁ……

今日はたまたま人いなかったからいいけど……

なぁ! うるせぇよ!

うるせぇんだよ!

いいんだよ!

うるせぇってことにしとこうよ……

うるせぇんだよお前はなぁ……

ほんとなぁ……お前はなぁ……

それなぁ……

ケータイばっか見てよぉ……

どうせアレだろ……

なぁ!

あれか? また2chまとめ見てんだろ

それか あっ、あれだろ

その写真上げようとしてるな……

俺の写真上げようとしてんだろ

Twitterとかやってんだろ

そろそろ着かねぇかな

あ、着いた

(終)

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【消失果実(ロスト・ベリー)】ep.1

 こうなったら本当のことを言う他あるまい。
 ここで下手に嘘をついたり誤魔化したりしたら、怪しまれることは免れない。
 沢口は一言、
「イチゴが消えたんだ」
と言った。
 個室全体が水を打ったように静まり返る。
 あ?
 話の流れを止められて怒っているのか、単純に疑問を呈しているのか、恐らく後者だろう。
 それを分かっていつつも、沢口の中では、さっきまで吹いていた和やかなムードという名の風が止み、代わりにじとっとした陰気さが覆い、その場の空気が硬直を始めた。
 沢口はやや平静さを失いながら、続ける。
「嘘じゃない。グラスの縁にイチゴが残ってたからこの箸でつかんで食べたはずなんだ。なのに、味がしなかった」
 酔ってるから舌の感覚が無くなってるんだよ、というなだめの声が浴びせられた。
 納得のいかない沢口は言う。
「そういうことじゃない。そもそも味というより、物を含んだ感覚が無かったし、飲み込んだ覚えもないんだよ」
 じゃあその辺に落ちてるんじゃない?
 その言葉で我に返った沢口は、服の襟や裾をめくったり、携帯のライトを駆使したりしながら畳の上、掘りごたつの下を探した。
 他の三人は終始沢口の動きを目で追っているようで、焦りと緊張で汗が額に滲む。
 何十秒か経過した。
 結局見つからなかった。
 するとそろそろ飽きたのか、このことに一人関せずだった奥の男が、そういうことだってあるよ、と能天気な表情で言い放った。
 それを受けて唸りながら大きく左右に首をひねった沢口は、まじないが解けたかのように俯き黙り込んだ。
 どっと笑いに包まれ、さっきまでの和やかさが戻ってくる。
 その日のイチゴが消えた話題はそれまでだった。

 一時間ほど飲んでから四人は解散した。
 その間、沢口は終始イチゴのことが脳裏によぎってあまり話に入れなかった。
 狐につままれたような気分に浸りながら手を振り別れて、沢口は一人別方向の電車に乗り込んだ。
 家路に着く間も、あのこと以外何も考えられなかった。
 あれはどこに行ったのだ。
 消滅(ロスト)した。
 心当たりのあるところはあの場で探したのに、どこにも見当たらなかった。
 水分を含んでいるのだから転がっていくものでもない。
 となると残る手段は、家で服を脱いで確かめてみる。
 それしかない。
 だが、それで無かったらどうする?
 この世にはもう、あの一かけのイチゴは存在しないのか。
 何をばかなことを。
 会いたい。
 あのイチゴに会いたい。
 彼奴に会わないと気が狂ってしまう。
 一人煩悶しながら、酔いの回った覚束ない足取りで沢口は自宅に帰ってきた。
 深夜一時を回っていた。
 当然だが、他の家族は寝静まっている。
 やや急ぎ気味で廊下を突っ切って、洗面へと向かった。
 台の前で沢口は服を脱ぐと、赤い実の潰れた跡がないか探してみた。
 見当たらなかった。
 耳を澄ませる。
 浴室から音がする。
 水の音だ。
 体を上げる。
 明るい。
 電気が点いている。
 ガラス戸から透けて見える浴室の中には、大きな赤色の影があった。

 やっと逢えたね。

(終)

【カラオケ狂言】ep.2

ーそれから三分後ー

「失礼しまーす エイプリルフール限定メニュー、カイワレサラダの上にポテトチップスかけちゃいました です」

これが本物か 写真で見たより心なしか新鮮というか、色合いのバランスが良いな

いくら見た目が良くても肝心なのは中身だ それは人間も一緒 論旨から遠ざかるような真似は断じて許さん

では、実食といこうか 頂きます

…………

な、これ……

まるで振りかけられたポテチがクルトンの役目を果たして、サクサクシャキシャキと

なんて楽しい食感なんだ

野菜たちが弾けている 舞っているのか?

分かった これはあたかも、バレエ!

口の中でバレリーナが踊っている!

いや、バレリーナではない 彼女はポテティーナ!!

そして、その演目はきっと……カイワレの湖!!

はっきり言って食感に集中しているだけでも全く飽きの来る気配がない

一年中噛んでいられる まるで何周でも見られる古典劇のようだ 感服

そして極め付きはドレッシング

和風やフレンチ、中華、数多あるドレッシングの中からシーザーを選んだところ

憎い まさにシュアショット スナイパーのように的確な一撃

ポテトチップがシーザードレッシングを含むことによって、クリーミーなポテトサラダのように変化!

ポテト独立宣言

名演説だった

一度で二度美味しい

それどころか、ドレッシングやポテチの味をマイナーチェンジすればいつまでも楽しめるじゃないか

自分だけのマイカイワレポテチサラダを探しに行こう

いやしかし 見た目も完璧

このようなフード 味も完璧

近年食べたことなどあったか?

マンネリ化した食べ物業界に何石も投じる大傑作じゃないか!

野菜の水分とポテチの油分のバランスも偶然なのか計算されてか明らかに万人受けする比率

年齢や性別ががばらばらなカラオケ店においてそれは大事なところ

あえて見た目にもう一度触れるが、器を変えて高級フランス料理店の前菜として出されても差し支えない味と見た目の美しさ

価格設定も誰もが手の届く低価格を実現か……

どこまでエンターテイメントすれば気が済むんだ!

し、しかもこのボリュームで100カロリー以下だと!?

恐れ入った

とにかく腹を満たしたいという男子のハートも、何かと食に気を使っている女子のハートもがっちり掴んでいる

ま、参りました……

「お客様、いかがでしょう?」

今日から俺も、たわけの仲間入りだ

(終)

【消失果実(ロスト・ベリー)】ep.1

「ちょっと飲まして」

 男子大学生の沢口は隣のドリンクに手をかける。
 グラスに口をつけて軽く一口飲む。
 お願いしたものの、それが何の飲み物か知らなかった。
 逆に知らなかったからこそ飲みたくなったともいえる。
 仲村のものが、見慣れない鮮やかな色をしていたので、飲めば何のお酒か分かるだろうと興味本位で事に及んだ。
 まず、爽やかな泡の粒たちが沢口の舌を刺激し、ほのかにアルコールが鼻に抜けた後、続いて果実系のツンとした酸味が残った。
「これ何? 何のやつ?」
 結局飲んでも分からなかったので反射的にそのカクテルの名称を聞く。
 あえて説明するなら、二度疑問符をつけることでやや強調気味に踏み込み、確実に答えを得る算段だ。
 生イチゴサワーだよ。
 恋人にしたい女優という話題で盛り上がっていた仲村たちだったが、算段が功を奏してか、あっけなく答えが返ってきた。
 だが、沢口はこの時三つのことに気がついた。
 一つ目は、名前に生が入っている、要するに中に果肉が入っているということ。
 二つ目は、飲んだグラス内をよく見ると中に小さな賽の目状の果肉が氷の表面を覆っていること。
 三つ目は、沢口自身がさっき口をつけた箇所にキューブ状の一かけの果肉がついていること。
 その三つの気づきを集約するに、沢口が仲村の生イチゴサワーを飲んだ拍子に中の果肉がこびり付いてしまったらしい。
 焦る事はないが、これは早めにどうにかしなければ。
 沢口はそう思った。
 そのドリンクの注文主である仲村や周りの友人たちに気づかれたら、少なからず不快な思いをさせてしまうかもしれない。
 意地汚い飲み方をするやつだと思われ、行く先々でからかわれ、恥晒しの人生を歩んでしまうかもしれない。
 そんなのはごめんだ。
 それだったら向こうが気づかないうちにこっちからアプローチしておこう。
 そう判断した沢口は、
「あっ、縁に付いてたわ」
そう言って取り皿に掛かっていた自らの箸を器用に操り、そのイチゴを挟んで口に運んだ。
 沢口の声のトーンは大したことのないオーラを放ち、ほとんど無駄のない動きで誰もが沢口の挙動に無関心だった。
 証拠隠滅。
 全てが順調に運んでいる。
 こんなことをしている間に沢口を除く三人は別の話で盛り上がりを見せている。
 作戦成功。
 そして、何事もなかったかのように話に加わろうとした。
 だが、その時気づいた。
 誰かにバレていたわけではない。
 だが。
 異変に気がついたのは、他の誰でもなく沢口自身だった。
「あれ?」
つい自然と声が漏れてしまった。
 それが思っていたより大きかったらしく、卓を囲んでいる三人が会話を止めて一斉に沢口の方を向いた。

 

(続く)

【カラオケ狂言】ep.1

さーて 何歌うか


その前に少し腹減ったから何か食べもんでも頼むか

ん なになに

エイプリルフール限定メニュー カイワレサラダにポテトチップスかけちゃいました?

何だよこれおい

ちょっと気になるな

はい もしもし

注文じゃないんだけどよ 気になる事があってよ

このさ エイプリルフール限定メニューってやつ?

そうそう そのカイワレにポテチどーたらっていう

これ何なんだよ

はいはい カイワレサラダの上にポテトチップスを振りかけて

はい その上にドレッシングぶっかけて

見りゃ分かるよ

同じこと説明に書いてるし 写真で一発だろうが

あんたの説明は二発目だよ

もう忘れねぇよ

てか俺忘れてねぇよ 覚える必要性もないけどな

切るなぼけ まだ話終わってないだろ

それじゃねぇよ 俺が聞きたかったのは

まったく 論旨から遠ざかりやがって

俺が聞きたかったのはどういうつもりで出してるんだってことだよ

エイプリルフールだからって何やってもいいと思ってるのか?

とんだたわけ者だな

たわけ店だな

言い直したんじゃないぞ 並列だ

たわけ店のたわけ店長だな

言っとくけど、このメニュー考えたやつから注文するやつ、作るやつ、持ってくるやつ、食べるやつ すべからくたわけだからな

お前もバイトだか知らんけど、甘んじて受け入れてるわけだから当然たわけだぞ 分かったか?

だから切るなっつの 話はここからだよ

そうやってまーた論旨から遠ざかる

遠ざかりたい年頃なんだな

俺にも論旨から遠ざかりたくなる時期があったよ ああ、あったあった

でな そのメニューなんだが

ええーっと、何だっけ?

カイワレサラダの上にポテチかけちゃったか

俺から言わしてもらいたいのは、もうちょっとひねれなかったかなーと

まず、料理にお菓子をかけるってこと自体が安直

あのね やるならカイワレにクワガタぐらいやって欲しいわけ

もう餌じゃん クワガタの餌やりじゃん

クワガタがカイワレ食べるかは置いといてね

あとまぁ、カイワレサラダにペンキ落としちゃいましたとかね

まぁ、芸術だよね

その場合ペンキの分量が難しいわけだけど

だからどうだっていう話なんだけど

多分ニスとか塗ったらそれなりに仕上がるんじゃないかな 先っちょの双葉のところとか何か良い感じの照り加減でさ

やらないけどね 俺はやらないけどね

提案なんだよね

年に一度しかない貴重なエイプリルフールなんだから、そんな食べ物に食べ物なんて在り来たりなことしないでサプライズが欲しいわけ

誰が頼むのよ そんなつまんない代物

けっこう出てますって嘘でしょ

インターネットバトラーみたいに口だけは達者だな

分かった じゃあ一皿注文してやるよ、身銭を叩いて

頑なに食べ物×(かけ)食べ物にこだわるんなら、そっちの方面でいってやるよ

一口食べて俺が的確にアドバイスしてやるからな

 

(続く)

【お疲れ様ですの業】ep.2

 もしかしたら。
 そういう。
 冗談だったのかもしれない。
 要するに。
 自虐と。
 皮肉の。
 入り混じった非常に高度な冗談。
 気付いて。
 やれなくて。
 心底申し訳ないと思う。
 だが。
 そうだとしたら。
 分かりづらい。
 朝。
 一発目にしては。
 重く。
 複雑で。
 素直に。
 笑えない。
 こんな。
 冗談は。
 生まれて初めて吹っ掛けられた。
 否。
 よく思い出すと。
 初めてではないかもしれない。
 聞き流してはいたが。
 思い返せば。
 何度となく掛けられてきた。
 しつこいほど。
 そう。
 もしかすると。
 遅効性の。
 笑いを。
 狙ってきたのだと。
 考えることも。
 できる。
 何度も。
 同じことを。
 繰り返すことで。
 後々に。
 爆発的な。
 笑いを。
 生み出す。
 そういうやり方なのかもしれない。
 だが。
 そんな。
 回りくどい。
 やり方を。
 して。
 何の。
 意味がある。
 野暮だ。
 分かりっこない。
 聞くか。
 本当の。
 理由は。
 本人しか知らない。
 だが。
 冗談の意味を聞く。
 それは。
 苦痛じゃないか。
 自分が。
 言った。
 洒落の意味を改めて聞かれるほど。
 そんな。
 恥ずかしいことはなかなかない。
 その場合。
 むしろ。
 私の。
 方が。
 野暮というものだ。
 ならば
 もう一つ考えるに。
 私は。
 単純に。
 喧嘩を売られたのか。
 まさか。
 彼が。
 私に。
 喧嘩を売るなんて。
 あり得ない。
 彼と私は。
 決して。
 仲が悪い訳ではない。
 ないのだが。
 しかし。
 可能性としては。
 ゼロ。
 ではない。
 それなら。
 苛々していたのか。
 だから。
 私に。
 お疲れ様です。
 などと。
 理由があるはずだ。
 彼を苛々させた。
 理由。
 何も。
 ないのに。
 苛つくはずはない。
 例えば。
 犬の糞を踏んだ。
 とか。
 好きなパンが売り切れだった。
 とか。
 理由はいくらでも考えられる。
 だが。
 本当の理由は。
 本人にしか分からない。
 聞きたい。
 聞きたいが。
 時機を逃してしまっている。
 これも。
 保留か。
 ならば。
 何故。
 朝一番で。
 お疲れ様です。
 という場違いな文句を発したのか。
 そうか。
 もしかすると。
 ひょっとすると。
 理由などない。
 ただ。
 彼は。
 寝ぼけていたのではあるまいか。
 きっと。
 お疲れ様です。
 ではなく。
 おはようございます。
 と言いたかったのではあるまいか。
 そうか。
 朝だから。
 多少寝ぼけることもあろう。
 寝ぼけていなくとも。
 何かの間違いでそう言ったのだ。
 そうだ。
 そうに違いない。
 なんだ。
 何が。
 お疲れ様です。
 だ。
 疲れているのは完全にそっちの方じゃないか。
 私は顔を上げた。
「食生活と睡眠が大事ですよ」
 そう声を掛けた。
 すると。
 彼は。
 無理に笑顔を作ってぎこちなく相槌を打った。
 だめだ。
 この人は完全に疲れている。
 私も疲れている。

(終)